山口拓夢哲学研究所

哲学者・山口拓夢の小論ページです


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ルカーチの生涯と思想

ハンガリーの革命家で哲学者のゲオルク・ルカーチ

がブダペストに生まれたのは、19世紀末。

街ではアールヌーボー建築が隆盛を極めていた。

アールヌーボーは植物的な曲線を多用した芸術で、

近代の合理主義に対する抵抗の美意識であった。

当時のハンガリーの郵便本局もアールヌーボー様式

で建てられている。

郵便局の登場自体が、大資本であるユダヤ富裕層に対抗して

小市民から広く浅くお金を集めるシステムで、反ユダヤ主義の

シンボルでもあった。

 

ルカーチの一家も、裕福なユダヤ系ハンガリー人で、

母はユダヤ系ドイツ人だった。ユダヤ系ハンガリー人の多くは、

自らのユダヤ的出自を離れて、マジャル語を話し、

マジャル的な姓に改姓し、キリスト教に改宗して、

ハンガリーへの同化を選んだ。ルカーチという姓も、ユダヤ名を

辞めて、ハンガリー=マジャルふうの響きとして選ばれた姓だった。

 

一家はユダヤ教からキリスト教プロテスタントに改宗し、

ゲオルクも、ギムナジウムに通い、ブダペスト大学で

政治経済を学び、西欧的な文化に憧れ、演劇青年として出発した。

 

ゲオルク・ルカーチは、友人とともに父親の融資で「ターリア劇場」の

主宰者となり、イプセンの「人形の家」などを中心に400数回上演を果たし、

演劇の現場を離れた。

ルカーチ自身この時代の自分を余り評価していない。

自分が演出家でも脚本家でもないことを自覚したという。

 

だが、この経験は公募を契機に「近代戯曲発展史」という千頁の

本の完成に繋がった。この本はドイツ留学で出会った哲学者ジンメル

の影響で、人生の形式とか魂の様態という考えに貫かれていて、

ここから彼の人間疎外論、人のモノ化理論の萌芽が生まれる。

 

こうして彼は理論家への劇的な転回を果たし、その後、

「魂と形式」などのエッセー時代に入り、文学理論を追い求める。

続いてマルクス主義への躍入の時代が訪れ、ハンガリー革命の

教育相となったが、政権はすぐに崩壊した。

亡命生活をしながら

「歴史の中で、自分の役割を意識した、民主的な革命政党が必要だ」と言い、

「人のモノ化」へ警鐘を鳴らす、代表作「歴史と階級意識」を書き上げた。

 

ハンガリー革命時代の教育相 バルトークやらコダーイを推す

 

 

 

ベンヤミンの軌跡

ワルター・ベンヤミンは、ユダヤ系ドイツ人で、プルーストの『失われた時を求めて』のドイツ語抄訳をした哲学者だった。
幸福なベルリンの幼年時代へのノスタルジー、失われた時を求めての回想が、彼の思想を絶えず支えていた。1940年に彼を彼岸に追いやった戦争のなかで、ベルリンもまた徹底的に壊されていた。彼が「ベルリンの幼年時代」や「ベルリン年代記」で活き活きと描いた街並みは引き裂かれていた。学生の頃ベンヤミンは、青年運動というワンダーフォーゲルと結びついた社会変革運動に参加していた。ロマン主義が求め、青年運動が願う失われた「若さ」とは、忘れられた子ども時代が夢や芸術作品に無意識に変形され、それとなく表面化されるものだ。ベンヤミンは失われた時を再現する批評と、ユートピアを回復する革命のイメージを重ね合わせて、マルクス主義に共感を寄せてゆく。彼は「暴力批判論」で、人を抑圧する権力による暴力と、革命のための群衆の抵抗の暴力を区別し、後者を認めると言っている。大作「ドイツ悲劇の根源」で、芸術作品は過去の断片の記憶から成り立ち、過去の記憶の全体を批評家は夢の意味として復元しようとすると言っている。美的経験は星座のようなものであり、この星座配置を浮かび上がらせるのが引用のモザイクである。ドイツバロック悲劇が夢の置き換え表現、寓意表現で失楽園を再現する迷路を作り出し、批評家はその夢の核心を寓意を読み解いて救済する。また、ベンヤミンはプルーストを例に挙げて、無意識の記憶はとりとめのないきっかけで突然蘇って来ると言う。プルーストは、ベンヤミンのように少年時代の思い出を復元させることに心を砕いた人物だった。また、ベンヤミンの有名な「複製技術時代の芸術」で、複製技術時代に滅びていくのは、作品の持つアウラ(後光、息吹、存在感)であると言う。アウラとは、今、ここにしかない作品の一回性である。アウラを失った以降の芸術は、断片の中に見えない意図を忍ばせることを試みる。それは、ダダイズムや、シュルレアリズムや映画のような形で集団的な夢の断片を復元する。ベンヤミンによれば、マルクス主義の目的は、大衆の無意識的な願望を実現することであり、芸術はその一助となるとした。また、楽園の言語を回復する努力が、彼のことば考を支えている。子どもも部族社会も、真似ることで宇宙と交感し、一体感を感じている。大人はこの能力に帰る必要があるとする。ベンヤミンは19世紀パリの遊歩街、パサージュの遊歩者を消費社会のありえたユートピアの住人と考えた。都市の夢に触れる無意識の散歩を現実に楽しむ場所としてのパサージュを考えることが、彼の未完のライフワークだった。同様に、記憶の瓦礫から歴史を救うという、「歴史哲学テーゼ」を残して、彼はナチスに占領されたフランスからの亡命の道を絶たれて、モルヒネを大量服用して彼岸へ旅立った。

ファシズムの脅威の果ての死の床で脳裏に浮かぶ革命の夢

ルターの宗教改革

ルターの宗教改革は、歴史的には、ドイツ革命とも言われます。
領国君主や諸侯が、教皇と皇帝に対して、その支配権を認めず、
ルターの指針に従って、カトリックを締め出し、領土の支配権を確立したからです。
けれども、事態はそれにとどまらず、領主や役人などの、いわゆるお上だけでなく、
自治都市の都市民や農民に至るまで、ルターを支持して、教皇・皇帝と戦いました。
ルターの宗教改革は、95か条の提言から始まります。
そこでルターは、免罪符を販売するカトリックの腐敗を糾弾しました。
そして、カトリックの聖職者には罪を許す権限はないとしました。
ルターは、その後、カトリック教会には司法、立法、行政権は認められず、
結論として、カトリック教会は撤廃されるべきだとまで断言しました。
ルターの教えでは、個人の力で天国行きを決めることはできません。
神が恩寵で自分を天国行きに選んでくれることを祈って、
信仰に勤める他に手立てはありません。
聖職者は天国行きの仲介者ではなく、神の前では一人の人間です。
ルターは、万人司祭説を説き、すべての人がお互いの司祭であると
しました。全ての人は、神の前では平等で、聖書に直に向き合うべきと
考えました。またすべての職業は神の思し召しであり、働くことで
神の栄光を地上に顕わすのが、信仰者の務めとしました。

万人が神の前では平等な聖書の語句に直に向き合え

アドルノの同一性批判

テオドール・アドルノは、フランクフルト大学でまなび、
その地の社会研究所の所長ホルクハイマーと「啓蒙の弁証法」
という本を書きます。
何世代も掛けて理性による進歩を目指してきた人類の啓蒙が、
その行き着く先に、技術文明の盛隆と戦争と大量虐殺に
至ったのはなぜか、と問いかけ、理性のあり方に
再考を迫りました。
アドルノやホルクハイマーらは、フランクフルト学派と呼ばれ、
その、批判理論で有名となります。
「啓蒙の弁証法」はアメリカに亡命中に書かれた本でしたが、
そのあとアドルノは「否定弁証法」という主著を書いています。
これは、全体主義の根底にあるのが、人に均一性を強要する
「同一性」第一の考え方であり、哲学は、長年、「同一性」を
優先する思考を育んできた、近年のカント、ヘーゲル、
そして唯一の存在の立ち現われで物事をひとくくりにする
ハイデガーもその枠内に居る、とする批判の書です。
ヘーゲルの弁証法は、正-反ー合の運動で同一性を
追究してきましたが、アドルノは同一性を逃れる運動を
否定弁証法と仮に呼び、小さきものへの眼差し、
違いや雑多性、無形のものの呼び声に耳を傾けることを
訴えました。フランクフルト学派の周辺には、ルカーチ、
ベンヤミン、ハンナ・アーレントらが居ます。
アドルノのスローガンは、「同調せず。」でありました。

人々に均一性を押し付ける世の圧力と絶えず戦う

プロテスタントの倫理と資本主義

マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は
宗教社会学の古典中の古典です。

この本でウェーバーは、プロテスタントの職業倫理が社会に与えた影響を
考えます。
その際、難しい神学の本ではなく、毎週牧師が説教に使っていた実用的な本
を使います。
具体的には、17世紀イギリスのバクスターの説教書などです。
ウェーバーはピューリタンを初めとするプロテスタントの職業倫理を検討します。
まず、プロテスタントの反もうけ主義です。
働いてお金をもうけること自体が目的ではありません。
働いて得たお金は、神が望めば、いつでも手放せる心構えが必要です。
この世の誘惑から遠ざかるためにも、仕事に就くのはいいことだとします。
プロテスタントには、働いて、神の栄光を世俗のただ中で示すべきという考えが
基本にあります。
だから働いた金も単に浪費に回すのではなく、さらに仕事に投資すべきと考えます。
こうした姿勢が、彼らの禁欲的生活に富をもたらし、さらに、資本を増やす
資本主義の動きに大きくテコ入れしました。
安息日に働かないことは、週に1日休んで、6日はきっちり働くという
規則正しい仕事習慣を作り出します。禁欲的とは言え、妨げにならない範囲で
娯楽もアルコールも有益であるとされました。
こうして禁欲的に働くというプロテスタントの倫理が、神の栄光を示すために働いて
冨を溜め、仕事の投資にお金を回して資本を増やすという、資本主義の原理に
ひじょうに有利な役割を果たしたというのが、この本の内容です。

働いて神の栄光指し示すプロテスタントが資本を回す

パスカルの『パンセ』について 

パスカルは『パンセ』のなかで、有名な、「幾何学の精神」と
「繊細の精神」を挙げています。
 幾何学の精神、合理的な証明の精神では、原理は明らか
だけれども、人はその方向へは頭を向けにくいのです。
文学や社交界で用いる繊細の精神では、道理は目の前にあります。
ただ、人は物を見るセンスが問われるのです。
 また、こうも言っています。「よい会話や悪い会話は
精神を作り上げたり、損なったりする」。
あるいは彼によれば、あらゆる大掛かりな気晴しは、危険であります。
なかでも演劇ほど破壊力のあるものは、ありません。
 恋心の種を植え付けるから恋愛ドラマは危険だと言うのは、
かなり生真面目な意見です。
 『パンセ』では、パスカルの人間洞察が光ります。
 権力を求めるのは愚かなことだ、という話で、有名な
クレオパトラの鼻、それがもっと低かったら、大地の
全表面は変わっていただろう、という名言が出てきます。
これはクレオパトラとジュリアス・シーザーの恋愛沙汰が
無かったら、世界地図が今とは全く違っていた、という意味です。
 神と共にある人間の幸福という章に、有名な、「人間は
考える葦である」ということばが出てきます。
この「考える葦」という表現は、デカルトの「われ思う、ゆえにわれ有り」
に匹敵する、「思考存在としての目覚め」の詩的な表現です。
 神と離れていることの悲惨さと、神の救いに気づくことの
両面を知ることによって、自分で考えて答えを出せるというのが、
パスカルの行き着いた出口でした。このような、人間の明暗への洞察が
『パンセ』の最大の魅力です。

人間は宇宙のなかで揺れながら自覚して立つ考える葦

フッサールと確信の構造

フッサールを読み直してみます。
世間の自然的な態度は、与えられた世界を素朴に受け入れていて、厳密さがありません。
だから、厳密な学としての哲学を確立しなくてはいけません。

哲学は、主観と客観は一致するかを長い間、問題にしてきました。
人は主観の外に出られない以上、この問題には答えが出ません。
だから、そこは判断中止にしよう、と彼は言います。

私たちが主観の外に出られないにしても、ものをとらえる意識作用と
そのとき現れる意識対象に対しては、疑いえません。
私たちは意識作用と意識対象を内省すれば、直接的に
その意味を把握できます。
これが、現象学的な本質直観です。

次に私たちは、人々が客観性を疑わないものに目を向けてみましょう。
人々が客観性を疑わないのは、お互いに確信の構造を持っているからです。

人々が事物世界の客観を疑わないのは、主観相互の共通の
対象世界への確信が成り立っているからです。
ここにある机を疑わないのは、人々がお互いに机があるね、と
確かめ合えるからです。
つまり生活世界の了解は、人々の相互主観性で成り立っています。
フッサールのまとめです。

人々が意識の中に現れる一つ一つを確かめ合える

ギリシアの人為性と無為性
先日は日下部吉信著、ギリシア哲学30講の上巻が来る。

図書館で上下巻借りて読んだので、内容は知っている。
ギリシア哲学には対立軸がある。
主観重視派(人為性支持派)vs存在重視派(無為性支持派)である。
古代の、ソクラテス以前の自然哲学は、存在重視派で、
タレスやアナクシマンドロス、アナクシメネスなどはこれに当たる。
とりわけ「この世には在るものしかありえない」とする
パルメニデスは存在重視派の巨人であった。
そこに教団を作った謎の数学者、ピュタゴラスが、
主観重視派(人為性支持派)として、登場する。
そこで哲学史の流れが、主観重視派に偏重してしまう。
ここまでが、上巻。
主観重視派の流れを決定づけたのが、善き生き方を問う
ソクラテスと、その弟子のイデア論のプラトンである。
アリストテレスは、その流れをいくらか存在重視派の方へ
巻き戻す。この辺りが下巻。
ギリシャからドイツを通って、存在が、日本に到来したんだよ!
という梅原猛先生の一喝で、日下部吉信氏の博士論文は
通ったんだって。要は、ハイデガーの受容である。
ここまでハッキリ、ハイデガー説を押し通す人もいなかったので、
一部では、話題騒然である。

存在が旅行鞄でギリシャからドイツを通り日本上陸

乳と蜜の流れる霊性

聖ベルナルドの説教集は尽きることない魅力を持っています。(キリスト教神秘主義著作集)

中でも、代表作『神を愛することについて』は、

彼が蜜の流れる博士と呼ばれた理由がよく分かる甘美な説教となっています。

以下、私の要約で紹介します。「神は、神であるがゆえに愛されるに値する。

賢明な人はそれだけで何のことかわかるだろう。けれども私は、さらに丁寧に

神はなぜ愛されるに値するか語りたい。第一に、神は全てのものを私たちに

与えた。息する者に空気を、見る者に光を、飢える者に食べ物を、何の見返りもなく

善人にも悪人にも与えた。それだけで神は愛されるに値する。さらに、神はその独り児

であるイエスを私たちに与えた。イエスは自分を私たちに与えた。

人はまず、自分の肉の悦びを求める。それは自然であるが、欲は無限であり、

地上のものをいつまでも追い求めることは遠回りである。人はまず、自分を愛し、

自分が欲するものを与えてくれることを願って、自分のために神を愛する。

さらに神を愛することが余りに甘美であることを知って、もはや自分のためではなく、

神のために神を愛する。人は冬を経て春を迎えるように、復活の時に

完全に神と一体になるのだが、この世で生きているときに、神を愛し、

我を忘れて無垢となるとき、驚くべき仕方で人は神のうちへと入ることができる。

神は信仰者にとって花婿であり、信仰者はイエスの花嫁である。

花嫁が恋い焦がれるとき、花婿イエスは何度でも信仰者を訪れる。

神への愛に肉体はある種の役割を持つ。肉体は人に生きる悦びを知らせ、

神への渇望へ向かわせ、祈る力を与える。だが肉体の悦びを幼子のように

気に掛けず、我欲を捨てて神を無心で愛する者は、地上で神とひとつになる時を持つ。

そこまで至らなくても、人は肉体を離れて昇天するが、復活の際には

肉体を持って甦る幸せに与かる。これらのことから、神が愛される訳は

十分説明しえたと思う。」というような聖ベルナルドの説教で

いろいろな意味で発見のある演説です。

 

神と子は見返りもなく与えたが神と人とは生きて融け合う

フィヒテ思想の骨格
カントは、認識論を扱う理論理性が先にあって、
道徳上の要請から、善悪や魂や価値判断を考える実践理性が
活動するとしました。これに、フィヒテは異を唱えます。
まず、人が生きてゆく際に必要となる実践理性があり、
理論理性は、そのために導入されるのではないでしょうか。
フィヒテが考える哲学の第一の前提は、A=Aです。
A=Aが成り立つためには、前のAとあとのAの間に、一貫した
自我があることが求められます。
ここから、哲学は、自我の存在を確かなものとして
立てます。
次にフィヒテが主張するのが、A≠非Aの壁です。
すなわち、自我に対して、非我が立ちはだかります。
フィヒテは、自我が自分の障壁である非我を乗り越えて、
自己を実現することを、事を行う、すなわち事行と呼びました。
自我の行為が事実を切り拓くことこそ、人間の自由だとします。
フィヒテは世界全体を知識の対象だとする、知識学を唱え、
絶対的知に至ることを目標とした点で、ヘーゲルと重なります。
ヘーゲルは歴史と哲学は神の自己展開だと考え、
自己の本質が神と矛盾しないことを絶対知と呼んだ点が
異なっています。
フィヒテは、カントを批判的に継承し、ドイツ観念論
を飛躍的に先へ進めました。
物事の同一律には自我が要り 非我を乗り越え自己を貫く

神学の秘密は、人間学である。

フォイエルバッハの『キリスト教の本質』

をまとめてみます。

彼によると、神学の秘密は、人間学であります。

人は自分の内なる愛を外化して、神として信じます。

人は人間の本質自体を取り出して、信じています。

神の本質は、人間の本質です。

対象は、内面の鏡であります。

キリストの登場は、冷たくなった人間の本質としての

神が、血の通った感覚を持った人間として取り戻されることです。

三位一体とは、本来、人間の外化した本質である神と、

人がふたたび切り結ぶことです。

無邪気な宗教は、人が神であり、神が人である感覚を

否定しません。人が人間全体の本質である愛を神に投影したのは、

個々人の不完全な愛を乗り越えようと望んだからです。

神学の本質は人間学であり、神は外化した、人の本質です。

外化した神に抑圧されるのは、本末転倒であります。

宗教の秘密を指摘した、大胆な本と言えるでしょう。

 

神学の秘密は人間学であり神は心の外化した像

堕天使としての言語

ベンヤミン・コレクション・近代の意味を読む。
文体が難しい。平たく言うとと次のようになる。

楽園言語に時間が影を落とすと、堕天使としての言語すなわちアレゴリーとなる。
同じことは、ゲーテ作品の持つアウラに対する現代芸術の非アウラにも、
幸せな原郷に対する断片・モザイク的表現にも当てはまる。

バロック悲劇は罪深さと悲しみを宿した堕天使的アレゴリー性を核心とする。
ボードレール的遊歩者ないしパリの近代は、失楽園的な享楽である。

シュルレアリズム他20世紀初頭の前衛芸術は非アウラ的なものへの転回である。

政治を耽美化(神格化=自己陶酔)しようとするのが、(超)近代の戦争であり
ファシズムである。

楽園に影を落とすと堕天使がもがき始めて美が自滅する

ウィトゲンシュタインのロジックの推移

古田徹也著「はじめてのウィトゲンシュタイン」読む。
どう考えても、初心者向きではない。
ウィトゲンシュタインの前期の「論考」は、
ことばで世界を写し取ることができる、という写像理論の本で、
厳密に写し取れない、神秘や価値については沈黙して見守るべきという結論で終わる。
古田氏の「論考」の説明は、ウィトゲンシュタイン本人が言わなかったことまで深読みしている。
けれども「探究」等の後期哲学については、
ことばは生活様式=ゲームである、とか、ことばは文脈次第で有意味になったり、無意味になったりするとか、
私は自分が痛いと知っているという表明は、痛いのに知らない場合は有り得ないから誤用である、とか、納得できる流れになっている。
後期の「アスペクト(見え方)」のひらめきとは、同じ図がアヒルに
見えたりウサギに見えたり、見え方が開けてくることだが、
これは、詩やナンセンスなことばを「それとわかる」ことの理解の鍵を与えてくれる、という結論で大いに納得する。

常識で見えないことが見えてくるその驚きにぐっと近づく

マルクスの基本姿勢

カール・マルクスの哲学の基本的な部分を説明します。

資本主義社会では、労働者は自分のものであるはずの労働からも、生産物からも「疎外」されています。

 労働力は労働者の商品であり、労働力と引き換えに賃金を受け取ります。
けれども、この取引は対等ではありません。雇い手は労働力の対価を正当に支払わず、働いた成果より少ない賃金を支払うのです。
そこで、この不払い分が、「剰余価値」となり、雇い手に蓄積されます。労働者はこのように、「搾取」されています。
 雇い手に集まる資本は、さらに投資、運用されることで増殖して行きます。「資本とは増えるお金」です。
資本主義経済によって商品は市場に出回るが、労働者の受け取る賃金では、十分な商品を買えません。
 雇い手同士も、より強い資本を持つ者によって、淘汰されてゆきます。
こうして不況・不景気で経済は上手く回らなくなり、無産階級が数の上で増大し、

無産階級は自らの不当な扱われ方に目覚め、連帯と抵抗によって、生産手段(土地、工場、機械など)と生産物を奪還します。
 これが「革命」です。
社会は労働の富を分配する、社会主義へ、さらには、生産手段の公共化による共産主義へ移行する、目算となるはずでした。

世の中の矛盾が限度に達すると敗者復活するという虹

スピノザのエチカの叡智

スピノザ『エチカ』を読んでゆきます。

まず、神は万物の根本原因であります。存在するのに自分以外を必要としないのは神だけです。
そのような神は、唯一の実体です。人間も自然も、神という実体の様態であります。

人は神の属性である、思惟と延長(幅を占めること)を持っています。
感情には、喜び、悲しみ、欲望があります。感情の根本には、自存力があります。
感情は悪いものではないですが、感情よりも理性や直観知が優れています。
理性と直観知によって、個物のなかに神の働きを見る事こそ、人の至福です。

善悪は人間にとって有益かどうかで人間が判断するもので、自然のなかには絶対的な善悪はありません。
個々の物は、それ自体、神の様態としては、精巧にできています。
神の様態にも多様な段階があり、人にとって有益に働かないものもあります。

暴君の横暴は、理性に制御されていない感情から来ます。
自然災害は、自然が人間の利益と一致しない場合に起こります。

人間には神の様態である自存力があり、生存の展開のために自己を守るのは理にかなっています。
受動的な精神を積極的な精神に変え、神の様態として十分に自分を発揮する者は自由で、
個物に神の働きを見る者は幸せと言えます。

自らを十分発揮する者は自由に生きる神の展開

ヘーゲルの道程

 『精神現象学』は、思弁哲学の入門書です。
人が、今、ここを感覚でとらえる自然的意識の段階から、ゴールである絶対知に至る歩みをたどる本だと言えます。
それは、意識が壁にぶち当たってその都度乗り越えてゆく、意識の経験の学であります。

意識は目の前の対象が自己意識の内容でもあることを知ります。
続いて、社会のなかに、自己の実現を見ます。社会と私を繋ぐ倫理を人倫と呼びます。

さらに宗教的な段階では、神が自分の内なる精神とひとつであると知ります。
最後の絶対知に至って、主観と対象の対立が解消されて、
意識の内容が、神の絶対精神とひとつになります。

つまり、これは個人の意識の成長の物語で、
同時に、神の自己展開の深まりの話でもあって、
哲学や歴史が、より軌道修正されていくドラマでもあります。

その中で、ある事実に対して対立するものが立ちはだかり、
両者のいいところをあわせ持つより高次の答えが出ます。
この、正・反・合の運動をヘーゲルは弁証法と呼んでいます。
かなり抽象的な話だが、理解できると思います。

ある人が素朴な意識の外へ出て知恵を深める旅の行く末

カント哲学の支柱


カントの『純粋理性批判』第2版の序文で語られる、「人が物をそれと知るとき、対象が認識に従う、と考えてみる」
というのが、いわゆるコペルニクス的転回と呼ばれるものです。

純粋理性が判ることは、経験的なものまでであって、神や自由や
魂について考えるのは、実践理性の仕事です。

人間の理性的認識の二つの源泉は、空間と時間の先天的、感性的直観
であって、この受け皿のもとに対象を受け取るとき、
悟性=理解力はものをそれと知ることができます。
悟性は理解の枠を作って、その枠によって物事をとらえます。

けれども、純粋理性が神や自由や魂や無限について考えようとすると、
相矛盾する前提がどちらも正しく見えるという、二律背反に陥ります。
これらの問題は道徳の必要上、人間がやむを得ず希求するものであり、
道徳については『実践理性批判』で扱う余地があると言います。
真・善・美の価値については、『判断力批判』が扱います。

空間と時間の皿が先にあり悟性の枠でモノを受け取る

ルソーの社会契約論


ルソーの『社会契約論』では、
まず自然状態があって、それなりに平和だったのですが、
個人の人命、所有権が脅かされる危機に瀕すると、
自分の権利を社会に預けて、社会の法に従い、
自分の権利を受け取る、という約束を、
社会を作る全員が執り行うと言います。
これが、社会契約であります。
人間は生まれつき自由なはずなのに不当に
束縛されています。
この矛盾を解決するには、社会成立の原則として
社会契約を見直せばいいのです。
個人は自分の権利を公けに預けて、
一般意志に従って行動することを誓います。
一般意志とは、分かりづらいことばだが、
社会の一人ひとりの利益にかなう意思決定と言えます。
この原則に従って、社会に譲渡した権利を
法の下で再び受け取ります。これが公平になされていない
社会ならば、契約を結び直せばいいのです。
ということで、ルソーの考えはフランス革命で
支持されました。

それぞれは合意によって新しい社会を作り権利受け取る

更新情報

山口拓夢Image

「短歌で読むベンヤミン」「短歌で読む哲学史」「短歌で読むユング」「短歌で読む宗教学」で知られる哲学・神話学者。哲学史、心理学、宗教学など心の宇宙を探る。口語短歌で学説をまとめるのが得意。訳書にチャールズ・シーガルの「ディオニュソスの詩学」(「バッコスの信女」の詳細な研究)がある。最新の論文は「オルフェウスあるいはフラジャイルの詩学」(2022)「『論考』から『探究』へ」および「文化の無意識」(2023)。

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